木村恒希が父の背中を追った最後の夏

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尊敬する父の背中を追い続けた3年間が終わった。

12日に全国高校野球選手権広島大会2回戦が行われ、木村恒希は父のようにバットを短く持って、球に食らいついたが、延長戦の末8-9で敗れた。

皆さんは、この木村恒希という高校生をご存じだろうか?

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実は、この子の父はプロ野球選手だった!

彼の父は、プロ野球で日本ハムや広島、巨人で活躍した2010年4月10日にくも膜下出血で亡くなった木村拓也だ。

彼は、高校最後となった12日の試合では、11回に左安打、12回は右安打を放つなど追い込まれても粘り、2回の生還を果たすなどチームの突破口を開いた。

試合は、懸命な返球をするもスクイズで2点失い、サヨナラ負けを決した。

試合終了後、このような言葉を残した。

勝ちたかったけど、チームの底力は見せられた。高校で野球をやって改めてプロの世界はすごいと思う。父を尊敬しています

苦難を乗り越え、胸を張って報告

恒希は、父の追悼試合で始球式を務め、ノーバウンドで真ん中に投げ込んだ。

中学校では、1度は強豪シニアに入部するものの厳しさから、「楽しく野球をやりたい」と母に伝え、中学の部活動に移った。

「自分の野球」を楽しむために。

高校2年生の時に、右膝手術を経験した。

それを乗り越え、最後の夏に挑む前に母に「やり切ってくる」と誓った。

将来は、父とは違い建築の道に進むことを考えており、進学するそうだ。

父からの教えと母への約束を果たした恒希は、短い期間だったが、最後まで戦い抜いた夏の大会。

最後に、このように語った。

父には“最後までやり抜け”と教えてもらった。力を出し切った―と報告します

故木村拓也の現役時代

日本ハム→1990年、捕手としてに入団

しかし、出場機会がなかなかなかったが、持ち味の俊足、強肩を活かす為に外野手に転向。

広島→1994年にトレードで移籍。

外野以外にも遊撃手や二塁手、さらにスイッチヒッターへの試みを始めた。

1999年には、一塁と投手以外のポジションを経験。

また、打率288、本塁打10本、30打点、165安打の好成績を残し、10年目にして急成長を遂げた。

2004年のアテネ五輪では、人数制限がある中で、複数ポジションをこなせる木村が選出された。

巨人→広島時代と同様、打撃や守備でチームの勝利に貢献し、ファンの記憶に残る選手に。

特に2009年のヤクルト戦ではチームのピンチを救うことに。

この日の試合は、大接戦で登録していた捕手が死球による交代などで使い果たしていた。

しかし、過去に捕手経験のある木村が自ら10年ぶりのマスクをかぶった

首脳陣からサインを出すと言われていたにもか関わらず、ベンチを見る暇がなくリズム良くサイン交換を行い、チームの窮地を救った。

まとめ

木村恒希は、将来、建築の世界を目指すと言うことだが、父のようにどんなことでも周囲のために全力で挑み、貢献できる人間になってほしいと思う。